2013年1月25日金曜日

作家紹介vol.4






荘司 麻衣 Mai SYOJI







荘司 麻衣「風のなかに紛れ 森の木々に潜む」2012










荘司 麻衣「あらゆる透明な幽霊の複合体」2011









宛てのない手紙を書き綴るように
遠回りをしてこの場所へ訪れる
一瞬の光景を焼き付けるように
あらゆる断片をつなぎ合わせようとする


私は、日常の場面や風景の中で見たり感じたりしたものの手触りを形に起こすところから絵を描いています。
ドローイングの中ではそうしたものの感触を線や色や形に置き換えていったり、立ち返っては観察とデッサンを施していくことを往々に繰り返していく中で、私は空想と現実を行き来して、新たな追体験を創造しているのです。











大内 麻美 Asami OUCHI







大内 麻美「いつもの」2012










大内 麻美「リリィ」2012










大内 麻美「はじまりのばしょ」2012








  絵画するということは、限りなく演技することに近く。】
演技するとは?与えられた役まわりの中でその役になりきり振る舞うこと。また、それにより特別な空間を作り上げること。
演技をしているそのとき、発する言葉と本人の思考と身体の動きはすべて重なり一致しているとは到底考えにくい。むしろバラバラなはずである。演技する自分と、演技している自分を客観的にみる自分。そうでなくてはそれは演技ではなく現実になってしまう。
つまり演技する身体の中では言葉と知覚が激しく渦巻いている。
そこにはあらゆる思想が終結している。渦巻く。死について、生きることについて、怒りや喜びについて。そしてそれらの感情のない交ぜになった後に急に何かがひらけたりする。それは悟りの感覚に近かったりしていて、わかりかける、解るとはこの世界の原理や、地球上で起こるすべてのことが視覚などではなくもっと直接的な映像でぐっと私の中に入ってくる感じだ、世界と一体化する感じに似ている。
私は絵画を描くときにも同じ感覚を持っていることに気付いた、私が描くものにこれを描いてますというようなモチーフはない。あるとすれば自分の中の記憶やイメージそのものがモチーフだろうか。目に見えないものを目に見て描く(ありきたりな表現を使うが、つまり心の目で見ている)。
それをするとき内側で激しく渦巻く知覚や記憶などを、意識を研ぎ澄ませ統一していかなくてはならない、そして避けるべきことは内側に閉じていってしまうことだ。内側にある激しいものを閉じ込めた瞬間にそれは開けた善い表現から自閉的なものに変ってしまう、虚無だ。












豊島   Takashi TOYOSHIMA







豊島 尚「parade」2012










豊島 尚「無題」2012
   









豊島 尚「自己の解放」2011








この世の中にある物には全て、物を形成する線が、色が存在する。真っ赤なバラや高層ビル群が作り出す夜景、ダイヤの散りばめられた指輪を、私達は見て美しいと感じる。それはどこからきて、そう思わせているのか。そして私達ヒトは、生きて行く中で、感じ、経験し、考える。それらの当然な事を当然だと割り切り、アプリオリの証明を諦めてしまうのだろうか。海に浮かぶ氷山の一角は全体像を見る事は出来ないが、表層でも推測だけでも良いから全体像を知る手がかりを知る為に、制作を行なう。










vol.4 荘司 麻衣 大内 麻美 豊島  尚

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