2013年1月31日木曜日

作家紹介vol.7






安永 則代 Noriyo YASUNAGA





















 





安永則代《手に入らないグレー #A-#E》2013








私は「線と面のグレーゾーン」というコンセプトのもと絵画を制作している。
グレーゾーンとは、対象との関わりや接点を問う領域であり、比較・対比による思考の課程であると考える。これは、絵画制作だけに限定したものではなく、現実世界にも同じことが言えると考える。世界は、自然環境や社会、情報など様々な要素によってバランスを保ち構成されているが、これらの要素には、白か黒、右か左でははっきりとは言い表せないグレーゾーンが存在していると考える。
また、人は正解や不正解などの判別をしたがると考えるのだが、判断材料として、正解や不正解、有か無か、善か悪かももちろん肝心ではある。しかし、その判別のみが答えではなく、不確実性の強い部分を問うことで、対象との関係性や、関わり方が見えてくるのではないだろうか。
人はそれぞれ要求するものは違うはずである。人と人との境界線を求めるのか、人と物との関係性なのか。もちろんそれに限ったことではないだろう。はっきりしている白と黒の部分ではなく、グレーゾーンのようなはっきりしない部分にこそ世界を観るためのヒントが隠されているのかもしれない。
今回出展する”手に入らないグレー(Gray / unobtainable)”シリーズは、線と面のグレーゾーンの関係性そのものについて問う作品であり、同時に人と人との境界線や、認識について問うものである。










佐々木 菜緒 Nao SASAKI







佐々木 緒「Clear Eye」 2012










佐々木 菜緒「朝を得、」2012










佐々木 緒「ZOUKA」2012







私は日々の感想や感動をモチーフネタにしてものをつくっています。何かを感じて何かを想うということも、何かを感じて何かが動くということも、鮮烈な瞬間です。私はものを作る時に、そうした目が眩むような瞬間を追いかけてしまいます。その鮮烈な瞬間が何なのか、ハッキリとクリアにしたいという衝動、それと同等に、そこから生命力、エネルギーのようなものを取り戻したいという魂胆があります。
目が眩むような瞬間を追いかけてしまうというのは本音です。が、それ以外はやや理想です。どこかで透明への衝動とエネルギーへの欲求は同じ場でことを起こすような気がするのですが、わかりません。
鮮烈な瞬間を得るというのはある意味で内臓での出来事、人間の機能での出来事です。エネルギーが欲しいというのも高揚感を求めているだけだったり、透明の到達地も実は自分のイメージでしかなかったりします。本物・原型のようなものの正確さを求めるほどに、それは作りようもないものだと気付かされるのです。ドキュメントを目指すようでいて、私の作るもの、それはかなりのフィクションです。
しかし、私は直感的に、感想、感動の事物を表現するよりも、鮮烈な瞬間の体験そのものを作りたい、作れたらいいと考えている節があります。この際、嘘でもまがい物でもいいからそれを本気でつくってみようという発想、何か作れるなら一瞬の体験くらい消費してしまってもいいというような気分・気持ちです。それは、何かを殺していくことで鮮烈さのようなものを得られると、体感的に思うところからも来ていると思います。
日々、制作の中でこうしたことを悶々と考えていると妄想の海に溺れるようですが、最近は、とりあえず今は触れるところから始めてみろ、と自分に活を入れてつくっています。










齊藤 のはら Nohara SAITO









齊藤 のはら「種蒔く人と穂苅歌」2012









齊藤 のはら「種蒔く人と穂苅歌部分」2012










齊藤 のはら「種蒔く人と穂苅歌 部分」2012








絵を描く=種を蒔いている感覚。一本の線から始まるイメージはどんどん伸びていき、増殖し、成長し、そこから種をまた採るために穂を刈る。展示が終わったあと描いたものは全て真っ白に消した。塗りつぶした時は本当に収穫してる気分だった。展示は、とある時にしか出現しない空間を作ることでもある。だからこそたくさんそこに種をまいて、収穫したかった。終わったらその場所から「消えて無くなる」からこそ、イメージの力を感じられるのではないか。そうすることで、頭の中に記憶として「場」の力がずっと残りつづける。それはわたしにとって、種を蒔く事とつながる。枯れて咲く植物のように、時間がたったら無くなってしまうものほど返って存在が深く残るのではないかと思い、試みた作品。









vol.7 安永 則代 佐々木 緒 齊藤 のはら

作家紹介vol.6






金藤 みなみ Minami KINTO

  





金藤 みなみ「Achela,大岡川をのぼる、くだる。」2013
   








金藤 みなみ「シャドウワーク」2013









金藤 みなみ「宿」2013







「土地を異化する為のパフォーマンス」

はじめまして。このブログをみてくださってありがとうございます。
私は絵画研究領域にいながら、普段はパフォーマンスをしている、と言える存在です。

私が『宿』と呼ぶ作品をつくる際に主に関心を寄せたテーマは地域性です。これまで、東京、ソウル、ヘルシンキ、黄金町等各地を転々とし、妖怪のようなかぶり物を被り、’歩き去る’パフォーマンス記録を収集してきました。私の作品にとって"異化"は重要なテーマです。例えば、東京の繁華街と東北の農村で、同じパフォーマンスをし、2つの映像を比べると、街の人々のリ・アクションの違いに気づきます。東京では人々はシャイで、慌ただしく通り過ぎ、まるでパフォーマーが"見えない存在"かの様に映ります。東北では、壮大な景色とともに何気ない人々の声かけが土地の存在を浮き上がらせました。その土地で暮らす人が、その映像を見て、"土地が違って見えた"と感想をくれました。その土地を行き交う人々の息づかいが。映像を通して土地にある'何か見えないもの'が可視化され、パフォーマーが'歩き去'った後も鑑賞者に土地の存在を感じさせます。

このプロセスを断続的に行い、シーンを繋げる事で、定点としての故郷を背負って歩き続ける姿を引き出します。

今回の展示ではイベントも充実していますので、
是非お誘い合わせの上ご来場ください:)

私はパフォーマンスもする予定です。







神保 光宏 Mitsuhiro JIMBO







神保 光宏「あらわれ」2012










神保 光宏「渾渾」2012








私の近作は、屋外(実際のモチーフがある場所)での制作を重視している。その場所には、草のにおい、風、日光、気温や湿度など、視覚以外の感覚への刺激が浴びるほどにある。それらの感覚を意識して、もう一度よく見るということ。それが視覚を超えた何かにつながるのかもしれない。 
視覚だけを分けて考えるのではなく、自らその場へ行きそこで感じること、自分の体から涌き上がるなにかこそ、「風景」なのかもしれない。 
私自身が「みえないもの」を見たい、感じたいということが、私の制作の根源的なモチベーションだといえる。










北浦 実奈 Mina KITAURA







北浦実奈「夜行天使」2012



 





北浦実奈「天使のごはん」2012









北浦実奈「ssssssssssss」2012







「てんしのたび」

天使は旅をする
群れをなしてずうっと飛んでゆく
天使の大移動だ
天使が動くと
大気も動く
地球の自転

右へ右へと回っているこの場所は
じいっと動かず立っていると思っても
一秒あとには同じ場所にはわたしはいない

天使は右から左へと飛んでくる

地球に立つわたしと天使とがぶつかるとき

爆発し
星星が散り
宇宙になる




私の描く天使は、決まって左へと飛んでゆきます。
何故左へと飛んでゆくのかと考えたとき、
時間の流れに逆向する時を超えた存在が天使なのだと気づきました。
地球は右へと廻り、時計やカレンダーも右側へ進むことの繰り返しをします。
時を重ねた今、何百年も前に描かれた教会の壁画や絵画が残っています。
彼らは生きています。
魂のこもった絵画や作品は時を自由に飛び越えるこのとできる
天使という生き物なのです。









vol.6 金藤 みなみ 神保 光宏 北浦 実奈

2013年1月28日月曜日

作家紹介vol.5






松本 玲子 Reiko MATSUMOTO







松本 玲子「黒目を注ぐ、あそこからここまでの空揺れるものすべて油彩、キャンバス 2012










松本 玲子「a pine tree soak the city slowly」インク、紙 2012










松本 玲子「walk across the emptiness」インク、紙 2012










松本 玲子「play in the vacant space」インク、紙 2012







景色、或る場所とそこに居合わせたものたちをモチーフに、絵画を制作している。
わたしはそれらが絵画のなかで、絵画によって、どのような光景に変貌していくかに興味がある。ある場面やものが絵画という場所を通過することによって、あらゆる運動を形成し、寄り道をする。現れるための作用は、それ自体同時に現れを打ち消そうともする。
その力のなかからイメージが立ち現れるとき、そのイメージとはひとつの「状況」であり、力の拮抗し合う場所に立ち、それらに支えられた存在の姿になる、と考えている。そのイメージに会うために絵画を制作し続けている。










赤津 桂子 Keiko AKATSU







赤津 佳子「untitled」2012










赤津 佳子「その中へと」2012







<私が絵を描くのは、私の中にある世界を探究したいからだと考え、絵を描いていたし、そのように自分の言葉として発信してきた。しかし、絵を描くことによって私の中にある世界は探究されてきたのだろうか。私の世界を投影しようとしている絵の中の世界に、絵を描く過程で生じる偶然性によってこれまで予想しなかった何かが現れた時、私の中にある世界にもその「何か」が存在するのかもしれない、と思うことがある。しかしそれは探究ではなく、偶然によって得られた発見であり、絵を描くことで生じた偶然性によって現れてきたものは、その絵の中にしか存在しないもので、私の中にある世界に「何か」としてそのまま還元されるものではないのではないだろうか。その偶然を引き起こしたのは、私自身でもあるし、その発見をしたことによって私の中にある世界は少しづつ広がっていくのかもしれない。しかし、絵を描くことによって探究されるのは、私の中にある世界ではなく、絵の中にある世界であり、私が探究したいのは、私の中にある世界ではなく、絵を描くことなのではないか。>
最近は、このような考えを持ち、制作をしています。










田澤 梨沙 Risa TAZAWA












 





田澤 梨沙「Aedificium stellarum in aqua et caelo」2012










田澤 梨沙「stillness,and separation」2012








現象を物質として捉えようとすることと、作品を作ること。

小さい頃、私は周りに漂う空気や舞い上がる埃やそれを照らす光に、何かを感じたりするもの、つまり心とよばれるものは、目の間に広がる光景のことだと思って、心ってきれいだなあと思って見つめていました。やがて、それは違うと気がつきましたが、あの時の自分にとっては眼前に広がる光景が、心だったんだなあ、と今になって振り返ります。

最近はそういうことが今の作品を作ろうとする気持ちにつながってるんじゃないかな、と思います。











vol.5 松本 玲子 赤津 佳子 田澤 梨沙