2013年2月3日日曜日

サノアヤコさん

今回は私たちの展示のフライヤーおよびポスターのデザインをしてくださった、デザイナーのサノアヤコさんについてご紹介したいと思います。 

 
Ayako  Sano  /   サノ アヤコ 佐野 

早稲田大学在学中に舞台の宣伝美術を中心に活動を開始。
各種グラフィックデザインやイラストレ−ション等を手掛けられています
現在フリーランスとして活動中。 
2012年に第一回東京装画賞 学生部門 銀の本賞を受賞されている新進気鋭のデザイナーさんです


出来上がったフライヤーはこのような仕上がり♪





サノさん、ありがとうございました!


気になった方は是非サイトの方にも足を運んでみてくださいね。
         ↓       ↓
Ayako Sano  official HP http://snov.under.jp/ 
     
また、フライヤーは、2/21〜国立新美術館で催される五美大展で配布する予定です。それ以外に他大学、専門学校、予備校さんに配布をお願いしています

2013年1月31日木曜日

作家紹介vol.7






安永 則代 Noriyo YASUNAGA





















 





安永則代《手に入らないグレー #A-#E》2013








私は「線と面のグレーゾーン」というコンセプトのもと絵画を制作している。
グレーゾーンとは、対象との関わりや接点を問う領域であり、比較・対比による思考の課程であると考える。これは、絵画制作だけに限定したものではなく、現実世界にも同じことが言えると考える。世界は、自然環境や社会、情報など様々な要素によってバランスを保ち構成されているが、これらの要素には、白か黒、右か左でははっきりとは言い表せないグレーゾーンが存在していると考える。
また、人は正解や不正解などの判別をしたがると考えるのだが、判断材料として、正解や不正解、有か無か、善か悪かももちろん肝心ではある。しかし、その判別のみが答えではなく、不確実性の強い部分を問うことで、対象との関係性や、関わり方が見えてくるのではないだろうか。
人はそれぞれ要求するものは違うはずである。人と人との境界線を求めるのか、人と物との関係性なのか。もちろんそれに限ったことではないだろう。はっきりしている白と黒の部分ではなく、グレーゾーンのようなはっきりしない部分にこそ世界を観るためのヒントが隠されているのかもしれない。
今回出展する”手に入らないグレー(Gray / unobtainable)”シリーズは、線と面のグレーゾーンの関係性そのものについて問う作品であり、同時に人と人との境界線や、認識について問うものである。










佐々木 菜緒 Nao SASAKI







佐々木 緒「Clear Eye」 2012










佐々木 菜緒「朝を得、」2012










佐々木 緒「ZOUKA」2012







私は日々の感想や感動をモチーフネタにしてものをつくっています。何かを感じて何かを想うということも、何かを感じて何かが動くということも、鮮烈な瞬間です。私はものを作る時に、そうした目が眩むような瞬間を追いかけてしまいます。その鮮烈な瞬間が何なのか、ハッキリとクリアにしたいという衝動、それと同等に、そこから生命力、エネルギーのようなものを取り戻したいという魂胆があります。
目が眩むような瞬間を追いかけてしまうというのは本音です。が、それ以外はやや理想です。どこかで透明への衝動とエネルギーへの欲求は同じ場でことを起こすような気がするのですが、わかりません。
鮮烈な瞬間を得るというのはある意味で内臓での出来事、人間の機能での出来事です。エネルギーが欲しいというのも高揚感を求めているだけだったり、透明の到達地も実は自分のイメージでしかなかったりします。本物・原型のようなものの正確さを求めるほどに、それは作りようもないものだと気付かされるのです。ドキュメントを目指すようでいて、私の作るもの、それはかなりのフィクションです。
しかし、私は直感的に、感想、感動の事物を表現するよりも、鮮烈な瞬間の体験そのものを作りたい、作れたらいいと考えている節があります。この際、嘘でもまがい物でもいいからそれを本気でつくってみようという発想、何か作れるなら一瞬の体験くらい消費してしまってもいいというような気分・気持ちです。それは、何かを殺していくことで鮮烈さのようなものを得られると、体感的に思うところからも来ていると思います。
日々、制作の中でこうしたことを悶々と考えていると妄想の海に溺れるようですが、最近は、とりあえず今は触れるところから始めてみろ、と自分に活を入れてつくっています。










齊藤 のはら Nohara SAITO









齊藤 のはら「種蒔く人と穂苅歌」2012









齊藤 のはら「種蒔く人と穂苅歌部分」2012










齊藤 のはら「種蒔く人と穂苅歌 部分」2012








絵を描く=種を蒔いている感覚。一本の線から始まるイメージはどんどん伸びていき、増殖し、成長し、そこから種をまた採るために穂を刈る。展示が終わったあと描いたものは全て真っ白に消した。塗りつぶした時は本当に収穫してる気分だった。展示は、とある時にしか出現しない空間を作ることでもある。だからこそたくさんそこに種をまいて、収穫したかった。終わったらその場所から「消えて無くなる」からこそ、イメージの力を感じられるのではないか。そうすることで、頭の中に記憶として「場」の力がずっと残りつづける。それはわたしにとって、種を蒔く事とつながる。枯れて咲く植物のように、時間がたったら無くなってしまうものほど返って存在が深く残るのではないかと思い、試みた作品。









vol.7 安永 則代 佐々木 緒 齊藤 のはら

作家紹介vol.6






金藤 みなみ Minami KINTO

  





金藤 みなみ「Achela,大岡川をのぼる、くだる。」2013
   








金藤 みなみ「シャドウワーク」2013









金藤 みなみ「宿」2013







「土地を異化する為のパフォーマンス」

はじめまして。このブログをみてくださってありがとうございます。
私は絵画研究領域にいながら、普段はパフォーマンスをしている、と言える存在です。

私が『宿』と呼ぶ作品をつくる際に主に関心を寄せたテーマは地域性です。これまで、東京、ソウル、ヘルシンキ、黄金町等各地を転々とし、妖怪のようなかぶり物を被り、’歩き去る’パフォーマンス記録を収集してきました。私の作品にとって"異化"は重要なテーマです。例えば、東京の繁華街と東北の農村で、同じパフォーマンスをし、2つの映像を比べると、街の人々のリ・アクションの違いに気づきます。東京では人々はシャイで、慌ただしく通り過ぎ、まるでパフォーマーが"見えない存在"かの様に映ります。東北では、壮大な景色とともに何気ない人々の声かけが土地の存在を浮き上がらせました。その土地で暮らす人が、その映像を見て、"土地が違って見えた"と感想をくれました。その土地を行き交う人々の息づかいが。映像を通して土地にある'何か見えないもの'が可視化され、パフォーマーが'歩き去'った後も鑑賞者に土地の存在を感じさせます。

このプロセスを断続的に行い、シーンを繋げる事で、定点としての故郷を背負って歩き続ける姿を引き出します。

今回の展示ではイベントも充実していますので、
是非お誘い合わせの上ご来場ください:)

私はパフォーマンスもする予定です。







神保 光宏 Mitsuhiro JIMBO







神保 光宏「あらわれ」2012










神保 光宏「渾渾」2012








私の近作は、屋外(実際のモチーフがある場所)での制作を重視している。その場所には、草のにおい、風、日光、気温や湿度など、視覚以外の感覚への刺激が浴びるほどにある。それらの感覚を意識して、もう一度よく見るということ。それが視覚を超えた何かにつながるのかもしれない。 
視覚だけを分けて考えるのではなく、自らその場へ行きそこで感じること、自分の体から涌き上がるなにかこそ、「風景」なのかもしれない。 
私自身が「みえないもの」を見たい、感じたいということが、私の制作の根源的なモチベーションだといえる。










北浦 実奈 Mina KITAURA







北浦実奈「夜行天使」2012



 





北浦実奈「天使のごはん」2012









北浦実奈「ssssssssssss」2012







「てんしのたび」

天使は旅をする
群れをなしてずうっと飛んでゆく
天使の大移動だ
天使が動くと
大気も動く
地球の自転

右へ右へと回っているこの場所は
じいっと動かず立っていると思っても
一秒あとには同じ場所にはわたしはいない

天使は右から左へと飛んでくる

地球に立つわたしと天使とがぶつかるとき

爆発し
星星が散り
宇宙になる




私の描く天使は、決まって左へと飛んでゆきます。
何故左へと飛んでゆくのかと考えたとき、
時間の流れに逆向する時を超えた存在が天使なのだと気づきました。
地球は右へと廻り、時計やカレンダーも右側へ進むことの繰り返しをします。
時を重ねた今、何百年も前に描かれた教会の壁画や絵画が残っています。
彼らは生きています。
魂のこもった絵画や作品は時を自由に飛び越えるこのとできる
天使という生き物なのです。









vol.6 金藤 みなみ 神保 光宏 北浦 実奈

2013年1月28日月曜日

作家紹介vol.5






松本 玲子 Reiko MATSUMOTO







松本 玲子「黒目を注ぐ、あそこからここまでの空揺れるものすべて油彩、キャンバス 2012










松本 玲子「a pine tree soak the city slowly」インク、紙 2012










松本 玲子「walk across the emptiness」インク、紙 2012










松本 玲子「play in the vacant space」インク、紙 2012







景色、或る場所とそこに居合わせたものたちをモチーフに、絵画を制作している。
わたしはそれらが絵画のなかで、絵画によって、どのような光景に変貌していくかに興味がある。ある場面やものが絵画という場所を通過することによって、あらゆる運動を形成し、寄り道をする。現れるための作用は、それ自体同時に現れを打ち消そうともする。
その力のなかからイメージが立ち現れるとき、そのイメージとはひとつの「状況」であり、力の拮抗し合う場所に立ち、それらに支えられた存在の姿になる、と考えている。そのイメージに会うために絵画を制作し続けている。










赤津 桂子 Keiko AKATSU







赤津 佳子「untitled」2012










赤津 佳子「その中へと」2012







<私が絵を描くのは、私の中にある世界を探究したいからだと考え、絵を描いていたし、そのように自分の言葉として発信してきた。しかし、絵を描くことによって私の中にある世界は探究されてきたのだろうか。私の世界を投影しようとしている絵の中の世界に、絵を描く過程で生じる偶然性によってこれまで予想しなかった何かが現れた時、私の中にある世界にもその「何か」が存在するのかもしれない、と思うことがある。しかしそれは探究ではなく、偶然によって得られた発見であり、絵を描くことで生じた偶然性によって現れてきたものは、その絵の中にしか存在しないもので、私の中にある世界に「何か」としてそのまま還元されるものではないのではないだろうか。その偶然を引き起こしたのは、私自身でもあるし、その発見をしたことによって私の中にある世界は少しづつ広がっていくのかもしれない。しかし、絵を描くことによって探究されるのは、私の中にある世界ではなく、絵の中にある世界であり、私が探究したいのは、私の中にある世界ではなく、絵を描くことなのではないか。>
最近は、このような考えを持ち、制作をしています。










田澤 梨沙 Risa TAZAWA












 





田澤 梨沙「Aedificium stellarum in aqua et caelo」2012










田澤 梨沙「stillness,and separation」2012








現象を物質として捉えようとすることと、作品を作ること。

小さい頃、私は周りに漂う空気や舞い上がる埃やそれを照らす光に、何かを感じたりするもの、つまり心とよばれるものは、目の間に広がる光景のことだと思って、心ってきれいだなあと思って見つめていました。やがて、それは違うと気がつきましたが、あの時の自分にとっては眼前に広がる光景が、心だったんだなあ、と今になって振り返ります。

最近はそういうことが今の作品を作ろうとする気持ちにつながってるんじゃないかな、と思います。











vol.5 松本 玲子 赤津 佳子 田澤 梨沙

2013年1月25日金曜日

作家紹介vol.4






荘司 麻衣 Mai SYOJI







荘司 麻衣「風のなかに紛れ 森の木々に潜む」2012










荘司 麻衣「あらゆる透明な幽霊の複合体」2011









宛てのない手紙を書き綴るように
遠回りをしてこの場所へ訪れる
一瞬の光景を焼き付けるように
あらゆる断片をつなぎ合わせようとする


私は、日常の場面や風景の中で見たり感じたりしたものの手触りを形に起こすところから絵を描いています。
ドローイングの中ではそうしたものの感触を線や色や形に置き換えていったり、立ち返っては観察とデッサンを施していくことを往々に繰り返していく中で、私は空想と現実を行き来して、新たな追体験を創造しているのです。











大内 麻美 Asami OUCHI







大内 麻美「いつもの」2012










大内 麻美「リリィ」2012










大内 麻美「はじまりのばしょ」2012








  絵画するということは、限りなく演技することに近く。】
演技するとは?与えられた役まわりの中でその役になりきり振る舞うこと。また、それにより特別な空間を作り上げること。
演技をしているそのとき、発する言葉と本人の思考と身体の動きはすべて重なり一致しているとは到底考えにくい。むしろバラバラなはずである。演技する自分と、演技している自分を客観的にみる自分。そうでなくてはそれは演技ではなく現実になってしまう。
つまり演技する身体の中では言葉と知覚が激しく渦巻いている。
そこにはあらゆる思想が終結している。渦巻く。死について、生きることについて、怒りや喜びについて。そしてそれらの感情のない交ぜになった後に急に何かがひらけたりする。それは悟りの感覚に近かったりしていて、わかりかける、解るとはこの世界の原理や、地球上で起こるすべてのことが視覚などではなくもっと直接的な映像でぐっと私の中に入ってくる感じだ、世界と一体化する感じに似ている。
私は絵画を描くときにも同じ感覚を持っていることに気付いた、私が描くものにこれを描いてますというようなモチーフはない。あるとすれば自分の中の記憶やイメージそのものがモチーフだろうか。目に見えないものを目に見て描く(ありきたりな表現を使うが、つまり心の目で見ている)。
それをするとき内側で激しく渦巻く知覚や記憶などを、意識を研ぎ澄ませ統一していかなくてはならない、そして避けるべきことは内側に閉じていってしまうことだ。内側にある激しいものを閉じ込めた瞬間にそれは開けた善い表現から自閉的なものに変ってしまう、虚無だ。












豊島   Takashi TOYOSHIMA







豊島 尚「parade」2012










豊島 尚「無題」2012
   









豊島 尚「自己の解放」2011








この世の中にある物には全て、物を形成する線が、色が存在する。真っ赤なバラや高層ビル群が作り出す夜景、ダイヤの散りばめられた指輪を、私達は見て美しいと感じる。それはどこからきて、そう思わせているのか。そして私達ヒトは、生きて行く中で、感じ、経験し、考える。それらの当然な事を当然だと割り切り、アプリオリの証明を諦めてしまうのだろうか。海に浮かぶ氷山の一角は全体像を見る事は出来ないが、表層でも推測だけでも良いから全体像を知る手がかりを知る為に、制作を行なう。










vol.4 荘司 麻衣 大内 麻美 豊島  尚

2013年1月23日水曜日

作家紹介vol.3






逸見 恒沙子 Hisako HENMI







逸見沙子「2011年のできごと2011










逸見 恒沙子「わたしがみたもの」2012











わたしは毎日必ず夢を見ます。そしてその夢を記録し、それを元に制作をしています。睡眠時にみる夢は不条理で支離滅裂ですが、そのナンセンスな物語にわたしは強烈に惹かれ続けてきました。 
私が、一人の私ではなく、多くの私を内包した私である、ということの実感を夢は与えてくれます。
わたしは殺人も犯したし、死刑にもなりました。スパイであり男性教師であり、真っ白なただの固まりであり、AKB48のマネージャーでもありました。近親相姦も、友人や動植物との性行為もしました。中国のマフィアに殺されかけたり、銀行員の美しい女性に恋もしました。タップダンスをして脚がもつれる焦り、背中をヒルが這う冷たさ、低音の素晴らしいノイズミュージック。全ては事実としてわたしの中に強く存在しています。
これまではその夢を文章や絵コンテや写真などにしてきました。それらはわたしが夢を見た証拠品です。そうして消化することで、レンタルしたまま、見ていないビデオが大量に溜まっていくような不安を取り除いているのかもしれません。










寺谷 小百合 Sayuri TERATANI







寺谷小百合「ベルトコンベアーのうえの肉塊.a」2012










寺谷小百合「ベルトコンベアーのうえの肉塊.b」2012






 



寺谷小百合「bc-machida」2012







夜の街に輝く光、立ち寄る光、集う光。 現代の人々が当然の存在としている造られた光たちの、にぎやかでありながら空虚な不思議さを描きます。










馬場 恵以実 Amy BABA
 






馬場恵以実「ことばから見えたもの(見えない)」2013










馬場恵以実「ことばから見えるもの」部分 2013










馬場恵以実「ことばから見えるもの」部分 2013







私は、言葉とイメージの共存を目指して作品を制作しています。私の制作において、言葉とイメージは別々に語ることができない存在で、それらは固く結びついて同時に存在しています。私にとって、言葉とイメージとは言語表現や絵画表現と明確に分けることのできない、両者を横断するものです。











            vol.3 逸見 恒沙子 寺谷 小百合 馬場 恵以実

2013年1月20日日曜日

作家紹介vol.2





佐々木 睦 Mutsumi SASAKI 









佐々木睦「同じモノを見ていた」2012










佐々木睦「白昼夢」2012










佐々木睦「朦朧の空」2012








例えば、同じ顔を持つ人間が自分以外に居たとして不思議な感覚陥るだろう。しかし私は、双子として生まれ身近に同じ顔の持つ人間が居る経験がある。周囲の人間と違う環境下におかれそれが普通と思う状況を生まれてから22年間続けてきた。これは、故郷の風景と同じ自身の原風景である。しかし、それに疑問を覚えた。
記憶の中には、必ず姉が居て、姉を通して物事を理解し、解釈していた。記憶は、本当に私自身のモノなのかまたは、姉の記憶なのか曖昧な幼い記憶を絵画として表現したい。
自身の絵画表現は、一般的な双子のあり方、かたわれの存在による身体的影響、心理的影響を考察し、私にとって「姉」の存在がどのようなものであったか油彩画によって提示している。











西川 美穂 Miho NISHIKAWA 







西川美穂「お昼寝セット」2011










西川美穂「aIr」2011










西川美穂「pillow」 2011










西川美穂「DOG」2011








ある主人公が病院から抜け出すために布団の中にダミーを作りまるでそこに人がいるよな錯覚を起こす場面をTVやマンガで目にした事がある。
私たちは、当然のようにそこに人がいると錯覚してしまう。
しかし、その中には人ではないモノがいるのかもしれない。
すべてが見えるわけではない。人の感情も同じである。
思っている事や感じる事を、見る事は出来ない。
私たちは、相手の気持ちを自分勝手に解釈をしている。
私たちは、見えないモノを見えているようにする事で、生活を成り立たせている。
見えるモノと、見えないモノの中で私たちは生活をしている。













矢野 亜美 Ami YANO 







矢野亜美「6月の風景画」2012










矢野亜美「遠く遠くの近く」2012








私たちは日頃、いったいどれだけのものを見落としているのだろう。 
たくさんの情報が目の前に溢れ、それを見たつもりになり、理解したつもりになる。 
流れ溢れてくる情報に身を委ね、ただただ受け流してはいないか。 
 
何もかもが「過剰」なのかもしれない。すべてが満ち足りていることに安心しきった私たちは考えることを少し止めてしまった。 
 
私は絵から少しずつモチーフの情報を削ぎ落としていった。 
そして描くことは、何も無い空白の中にある「何か」を探る作業になっていく。












vol.2 佐々木 睦 西川 美穂 矢野 亜美